2015年 05月 03日
ひとのはなし ~そんなに遠くない昔で、そんなに近くない未来。~ |
「おろしたらいいじゃん。」
「産むと?」
「15で産むって、何も他のことが見えてないんじゃないですか?」
「わたしだったら絶対おろすな。」
「でも、産みたいんだって」
「それって、今の僕らの年齢で、子どもが成人しとるんやな」
「それはそれで、かっこよくない?」
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カフェやファミレスへ入ると、近くの席からすごくプライベートで、顔のない話がときどき聞ける。だいたい、朝早くか深夜のこと。そのカフェでは、その時、朝のニュースが流れていた。それは顔は見えるのだけれど、顔しか見えないパブリックな話。本当の顔ではない。
相手のことを知っていて、ある程度何を考えているのか顔を見て分かるほどの、そういう関係というのは、そりゃ彼氏彼女親子夫婦友達などなどという関係のどれかだろうけど、そういう関係もときどき出来上がる幻想みたいなものだろう。でも、この関係の中で起こる話は、カフェで聞こえてきた2つの話とはきっと違う。
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僕は長い間、実家を出ている。15年近く離れて暮らすということは、その間に家族の間でどういう生活があったかが全く抜け落ちているのであって、家族について僕が知っていることは顔のみなのかもしれないと思うこともある。それでも、高校を卒業するまでの記憶と、実家を出てから年に数度帰るという断片的な出会いによって、連続した関係は保たれている。これは友人の例で考えるほうが分かりやすかったかもしれない。普段連絡をとらない友人と、数年ぶりに出会っても、当時と変わらない感じがするということはよくあることだ。ただ、この場合には、連続はしているが前回出会ったときの続きをしているという側面もある。連続しているのではなく、一時停止と再生の繰り返しをしていると言える。弟は遠距離恋愛をしているらしいのだが、彼らも同じように、お互いが行き来し出会う時に再生し、分かれるときに一時停止しているかと言えば、そうではない。彼らは携帯で連絡を取り合っているのだろうし、仮に携帯のない時代で連絡を取り合えないとしても、それは一時停止できず再生し続けた連続した記憶として残るのではないだろうか。たぶん、連続の仕方は様々なのだ。
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僕はファミレスに1人で入るのが好きで、それも深夜が特にいい。そういう時間に行くと、たいてい、どういった関係でこの人達は一緒にいるのだろうかと、想像してしまうような凸凹のカップルや、どうしてこんな時間にこの人達は、全力でお金の話ばかりしているんだろうかというおばちゃん達。何人とやったことがあるかを声高々に話す大学生。深夜3時でも4時でも全力ではしゃぐ小さな子ども連れの家族などなどなど。僕はそういう人達を観察したり、話をこそ聴きするのがけっこう好きなのだ。でも、一応言っておくが、僕はわざわざその為にファミレスに行っているわけではない。作品のプランを出しに行ったり本を読みに行ったりしている。そういう時に、会ったこともない、顔も知らない人達の話が聞こえてくると、妙に想像力が膨らみ、なぜか新しい作品プランを思いついたり、今までなかった新しい視点を見つけたりできる場合がある。そんな特別ラッキーなことばかりではないが、それでも、ただ聞こえてくる会話から想像が膨らんだりすることはよくある。なので、寝ることができない人や、寂しい気持ちになった人には、夜のファミレスを特にお勧めしたい。
このような、主人公も見えず、話の前後も分からず、終わりも始まりもないエピソードは、僕の想像力をかき立てることがある。僕とは何にも関係ない話を、僕の理解できる範囲へ導いていく過程は、創造的な思考回路の迷路をゴールするような、そんな楽しさがある。そんなことを楽しめるときはたいがい特別体調がよく、スポーツで言うところのゾーンに入るような、ハイな状態へ突入する感覚がある。だからいつもゾーンに入れるわけではないし、ハイになったからと言って1人ではしゃぐことができるほどの状態でもない。でもファミレスには創造的な出会いがあるかもしれない。そういう期待がいつもある。
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連続した記憶から、断片的な出会いへ移行した場合、辛さや不安をもたらす。それは、例えばホームシックにかかった時や、愛おしい人からの連絡を待つときなどなど。このような症状が出るときは、連続した時間の渇望症になっているのだ。そういう連続した時間や関係を維持することが難しいときに、僕たちは、断片的な時間をつぎはぎして同じタイムラインに並べることができるよう科学変化を起こすのだ。これも一種の逃避みたいなもので、そうすることで、日常生活を平坦に過ごすことができるだけでなく、再会したときに前と同じ所からスタートさせることができるようにもなるのではないか。
テレビを見ていたら、「夫に帰ってきてほしくない。」「家にいて欲しくない。」などとコメントしている奥様を見たことがある。また、「そのほうが長続きする。」という旦那側の言い方も聞いたことがある。彼・彼女らの関係は、連続した時間を必要としていないのだ。連続した時間を持つことのほうが辛いです。断片的な出会いで充分です。と言っているんだろうと思う。このように発言した次の日に、本当にパートナーが帰ってこれなくなったとしたら、その人達はどうするのだろうかといつも思う。「冗談でも言ってはいけない。」という言い方は、たぶん冗談を言った側への配慮なのだろう。とはいえ、そのような配慮は必要なく、このようなことを言うということは、逆に、彼・彼女達は、連続した時間を保っているということでもあり、ある程度の平穏な夫婦関係を維持しているのであろうと、想像できなくもない。
このような熟練したカップルの例とは反対に、若いカップルのメールや手紙や実際のやりとりは、断片的な出会いを繰り返している。「帰ってきてほしくない。」「別に会わなくてよい。」というような熟練カップルや特殊なカップルであれば、メールのやり取りくらいでちょうど良いのかもしれないが、一時も離れたくないというような熱烈なカップルは連続した時間を必要としているのだ。逆に言えば、断片的な出会いを繰り返しているからこそ、連続した時間が欲しくなるのかもしれない。それはなぜかと言うと、断片的な出会いでは、会っていない時のことが分からないからという単純なものだろう。この分からなさが、辛さや不安を生むきっかけになることだってあるのだから、そうならないように気をつけて埋めなければならないのだ。埋めることで、連続させていけばよい。でも埋め方はその関係によってきっといろいろある。例えば、メールのメッセージとメッセージの間に一定の時間が開くことや、そのテキストの中にある感情を読み取ることが難しいことなどから、断片的なコミュニケーションになってしまい、関係がうまくいかないということはよくある話だが、このようなケースを解消するには、連続した記憶や時間や関係を築いていくしかないだろう。しかし、連続の仕方も個々の関係によって様々だと思う。
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勘違いしてはいけないのは、いくら長く連続した時間を持ったとしても、分からなさを無くすことは難しいということだ。また分からなさが無くなってしまうことで失うこともある。一定の分からなさは、相手を魅力的に、またはミステリアスに見せる場合もあるので、分からなさを全て否定的に捉える必要もない。それに、職種や性別や宗教や人種などのアイデンティティに関わる部分は、ずっと交わらなくて最後まで分からないという場合のほうが多いのではないか。多くの男女が、男性が分からない、あるいは女性が分からないと、言い合っているのは、アイデンティティと関わっているからだと思う。男女の脳みその構造的な問題ももちろんあるのかもしれないが、アイデンティティの問題は、概念と概念の交わりの問題でもあるので、脳みその回路の問題と言うよりも、概念を創ってきた環境や時間の問題であるように思う。一般社会の環境や時間の中で創られてきた概念と、個別の関係の中で自然に生まれてくる概念とは違うわけで、そのギャップからアイデンティティの問題は生まれるのではないか。という仮説。そうすると、一般的な人間関係の形を、特殊な2人の関係に適用することは難しいのではなだろうか。だから、一般的な概念だけを使ってコミュニケーションをする限り、他者との関係や何か異質な文化との関係に触れる際の分からなさというのは解消されない。限られた集団や関係の中で、自然に構築される概念を使ったコミュニケーションの中にだけ、「分かる」と思わせる何かが生まれるのではないだろうか。扉ごしに「山」「川」のような、暗号を共有するような、そういう共同体や関係の中には、おそらく一般的に使われていない言葉の使い方が生まれてくるものだろうと思う。そういう暗号のようなものの共有の中にこそ、相手への信頼や理解、辛さや悲しみの解消のポイントがあるように思う。
そうすると、全てを理解したつもりでいる熟練のカップルは、2人の関係においてしか通じないような共通の概念がすでに構築されており、その言語の強度により、「帰ってきてほしくない。」と言えるほどの関係になっていると考えることもできる。分かるからこそ、イライラするということもあるだろうし、飽きたとも言えるかもしれないし、会わなくてよい、と言えるかもしれない。それと別に、「時々会うくらいのほうが長続きする」という意見は、確かに意図的に断片的な出会いにしていくことによって、分からなさを維持することができるため、相手の魅力を失わないかもしれない。そういう意味で長続きはするだろうと思うが、それは、特殊な2人の関係を構築するような、共通の言語を築いていくような関係を省いているように感じられ、特別な誰かというよりか、一般的なその他大勢との関係を維持しているのと同じことになり、それはそれで寂しいものではないかと思う。分からないことがあるとき、初めて人間は考え出す。だからこそ、分からなさと出会ったときに変化や成長できる可能性があるように感じるし、だからこそ分からないものに興味を示すのだ。そういう分からない経験が、最終的には美的なものとの出会いにも繋がっていくと思う。分からなさ自体が問題なのではなく、知ろうとするかしないかということが問題なのではないだろうか。
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顔のない話は、常に魅力を保てる。それは、分からなさを伴うからだ。どこまで創造を膨らませても、実際の顔を思い浮かべることはできない。また断片的なストーリーだからこそ、始まりも終わりもない話になる。例えば、歴史も断片的なストーリーであることに変わりないのだが、登場人物の肖像や生い立ちや、時代背景などを知ることで、過去へタイムスリップする感覚で歴史を見ることができる。「過去や他者の経験を自分に近づけていくこと」それが歴史を学ぶということでもある。自分が実際に経験したことがない歴史を学ぶことは、常に想像上のことだが、人物像や当時の世界像を思い描くことができるからこそ、経験したことがない遠い昔の歴史でも、僕達は理解しやすくなっている。それに比べ、ファミレスの隣の席から聞こえてくる、全く人物像の分からない、断片的なストーリーというのは、分からなさを維持することしかできない。分からなさを補うのは、こちら側の想像力だけだ。
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このような、分からなさや分かりにくさ、どっちつかずの状態、中途半端、などなど、というものが含んでしまいがちなこととして、社会通念からの乖離や、時間間隔のなさのようなものを挙げることはできそうだが、それよりも、どこにも存在していないようなのに、逆に何やら凄い存在感を感じるというそのギャップを持った状態自体へ惹かれる。この感覚は、完全に僕自身の言葉の使い方や、言葉の理解の仕方に基づいた感性的な部分から来る、勘違いのようなものが生み出すどうにも言いようのないものだと考えているので、これだけの長文を書いても、多くの人には伝わらないのではないかと思っているのだけど、今書いているようなことこそが、ここ数年の僕の創作活動だと思う。作品としてアウトプットするときは、結局のところ、必死でたくさん語っているのに、何も本当のことは語っていない。というような漠然としたイメージを連続して見せたいという考えがある。言葉というのは不思議なもので、何もないところへ何かをつくりだしたり、本当は何かあるところを無いものにしたりできる。そして、この言葉の特性は、言葉を語る側と言葉を受け取る側のそれぞれが、いつでも自由に使うことができる能力なのだ。その両者の間にあるモヤモヤとした非言語の部分に何かとときめく。
by terae-art
| 2015-05-03 19:39
| ┣考え中