ときどき書きます。アイデアノート。
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bitecho 「上海ビエンナーレで王海川が提示する、中国現代社会のひずみ」
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# by terae-art | 2016-12-08 23:02 |  ┣考え中 | Trackback | Comments(0)
遠く離れたところからでも聞こえるでしょうか。
中国に来てから3ヶ月が経過しようとしている。
どういうわけか外国に住んでしまっているわけだが、未だにあんまり実感がない。フランスやイタリアに行ったときも、最初の数日は、ちょっとした感激もあったが、今回も同じである。住めば都と言うが、つまりどこも同じだということであろうか。

しかし、実感のなさというのは、場所から来ていることだけではない。特に外国人になっている自分が実感できていないのではないかと思う。なぜなのか分からないが、言葉が通じようが通じまいが、人種が違おうが、僕にとってはあんまり問題にならないからかもしれない。それにこちらにいると、日本人として、外国人として認識されていて、いつも、日本人の一朗だよなどと紹介されたりしているのだが、当の本人は日本人を代表している気持ちが欠けているし、日本人だからと言って何か特別な嫌がらせを受けたりも今のところないことも原因かもしれない。今思えば、中国に来る前にいろんな人から聞いていた、「重慶は反日の人が多くて日本人お断りのレストランもあるよ。」というような、よろしくない情報に僕は興味を持っていた。これは差別を受けることで日本人としてのポジションを自分の中に植え付けることができるかもしれないという期待だったのかもしれない。確かに僕は、様々なサービスをいつの間にか提供されてきたし、殺されたり病気になったり戦争に行ったりもしなかったので、この国の恩恵を受けているとは思う。だけど、どうしてか、あまり愛着がなく、脱出したいなどと常々考えてもいた。甘い考えなのかもしれないが、そうでもしないと、居場所を国や故郷に持つことができないのではないかと考えた。今は中国語のクラスに通っているのだが、クラスメートにパラグアイ人が2人いる。その2人と僕の3人と、中国語を教える中国人の教師の4人しかいないクラスだ。時には欠席があったりして一対一の授業もある。そのパラグアイ人は、授業の度に自分の国のことやパラグアイの人々のことを説明してくれる。一番印象に残っている日は、授業の半分以上をパラグアイのことについて説明していて、中国語のクラスなのか英語のクラスなのかよくわからなくなるほどであった。そういう彼を考えると、パラグアイへの愛を凄く感じるし、やはりパラグアイ人として中国に外国人として来ている意識があるのだろうなあ。と感じる。また、日本にもたくさんあるが、外国人の人たちが集まるバーやクラブもある。そこにアメリカ人と一緒に行ったときにその人が言っていたのが、「外国人がたくさんいることが重要だ。だからクラブに行きたいんだ。」と言っていた。どういう意図で言っていたのか分からないのだけど、その言葉は印象に残った。彼は白人で背が高いし中国にいると目立つ。街を歩いていると、いろんな人に見られているし、時には「おぉ」とか「うゎ」というような声で一歩引くような動作をする人もかなりいる。だから、その発言はそういう人々の視線のことも少しは関係していたのかもしれない。そういった外国人向けのクラブだけでなく、日本人会のような国別の集まりもある。重慶にも重慶日本クラブというのがあって、よく集まっているようだ。こうやって国別や人種別に集まってしまう傾向は、外国人が多数いる地域ではどこにでもあるのだろうけど、僕はだいたいどの場所に行っても馴染めず、部屋に帰りたくなる。それは日本にいてもそういう傾向はあったが、特にそんな感じになってしまっいる。(あ。だけど、日本でもここでも頑張ってコミュニケーションはとってるつもりよ!)

ーーーーーー

こちらでは主に英語と中国語とその他の何かしらでコミュニケーションをとるのだけど、それは僕にとってはけっこう高い壁だ。それなりに一生懸命勉強もしてきたし、今もしているし、実践も日々ある。こちらに来れば中国語で喋るしかないであろうと思いきや、けっこう英語を使う。どちらにしても苦労するのだけど、中学から英語をしているわけなので、英語のほうがましなのは言うまでもない。どうにかして伝えるわけだけども、最近はスマホの翻訳アプリがあったりして、お互いに英語が悪い場合でもなんとなくの意志疎通ができたりするものである。しかし、電力やインターネットが、このような人とのコミュニケーションや何にも分からない場所に行くときにも役立つことは皆が知っていることだが、これが良いこととはどうしても思えない。というのも、電力が無かったら死んでしまうような人間にはなりたくないからというのもあるけど、言葉が通じるからといって心も通じあえるとは限らないってこと。それは、僕がなんとなく居場所がないなあと感じるときにいつも思うことでもある。日本にいても中国にいてもどこでもそうだ。ただ、言葉は大変便利なものであるとは分かってきた。言葉が通じることによって様々な要素が関係性のなかに組み込まれて、複雑になり、いろいろな齟齬もきたす。だから、言語には欠陥があるんだろうと思ってきたのだが、それでもやっぱり人は言葉を頼って生きているのだなと外国人の集まりを見ると思うし、意志が通じないストレスというのを解消するには、言葉が一つの手段になることも分かったからだ。そんなの当たり前じゃん。と思われるかもしれないけど、言葉ではない何かがきっと大事なものだし、言葉にとっても言葉ではない何かが大事だろうと考えてきた僕にとっては、言葉を使うというのは凄く難しいし、他の何か別の方法を見つけたいという志向も変えにくいのだ。もちろん言葉は大事ですよ。わかってますよ。でも、Google翻訳だけでなく、母国語以外の言葉は多くの場合翻訳でしかないってこと。それは、下手な英語や中国語よりも、場合によっては不便な言葉になる可能性があるのではないかと考えているので、翻訳に頼るコミュニケーションは良いことだと思いにくい。母国語同士でも意思疎通は難しいことがあるのだから。それは、母国語同士でも、自分の感情を言葉に置き換えていると考えれば、これも広い意味での翻訳になると思うので、やっぱり難しい関係や状況も時には生んでしまうということなのではないかと思う。しかし、母国語については、環境や社会や言葉や問題意識などいろいろなことを共有している人達同士であれば、ある程度言葉を使って理解し合えるだろうという期待はある。外国語もネイティブなみになれば、それは母国語と同じだが、それはつまり言葉が上手ということだけでなく、先に述べたような環境や社会や言葉や問題意識なども共有できていなければ、結局はネイティブ並にはなれないということになる。つまり、生まれた場所というよりも、環境が言葉には重要であるということだから、いくつかの言語を本当の意味で自由に操るというのは、かなり生活環境の条件を整えないと難しいのではないか。

ーーーーーー

宿舎に戻る途中に守衛さんがいて、毎日ニーハオ!と元気よく挨拶してくれる。それ以外にいくつかのやりとりもあるのだけど、中国語なのでほぼ何も理解できまない。僕はそのおじさんがどんな人なのか全く分からないのだけど、なぜかその人との少しのコミュニケーションが大変気に入っている。しかしここ1ヶ月ほど見かけなくて、しばらくコミュニケーションしていなかったので、どこか行ってしまったのかなあ、と残念に思っていた。だが、今日久しぶりにその守衛が戻ってきていた。僕は、おお!いた!と思ったし、向こうもなぜか、わざわざ守衛室から出てきて、やたらと何かをしゃべっていた。それから、僕たちの決まりは、会話の最後はティンプトンと言って終わることだ。ティンプトンは何言ってるか分かんないよという意味。それなのに会話してきてくれる。なぜかできあがった決まり文句があることで、わけの分からないコミュニケーションに楽しみが生まれている。なぜだか分からないが言葉じゃない何かがこのおじさんとの間に芽生えているのは間違いない。それは、最初の挨拶の時からだったから不思議である。僕は、恋愛や友達関係になるときも同じ何かが働いていると思っている。

ーーーーーー

結局皆が知っている凄くつまらないことをずっと言っているようなのだけど、このような言葉の問題や関係性について僕はけっこう真面目に取り組んでしまっている。中国に来て最初は、やたらと吠えてきて噛みつきそうな犬を見て仲良くなりたいと思ってしまい、毎日餌をやりに行ってみるなど、全然分かってもらえそうにないけど、非言語コミュニケーションについて探ることに真剣なのである。この犬に餌をやりに行っていた頃は、アメリカから来ていた作家が近くにいて、彼に図を駆使しながらこの犬とのコミュニケーションについて説明したりした。他の人にもこの素晴らしい分かりにくい体験のことをお裾分けしようとトライしてみたのだが、その人にはなぜか何かが正しく伝わり、その後彼とはワンワンなどと言い合うような仲になったりするなど、不思議な実践を真剣に繰り返しているところである。

こちらに来る前は、遣隋使の人達はどうしていたのであろうか、などと考えたりしていたのだが、たいして僕のやってることと変わらないのではないかと最近は乱暴に考えたりもする。ワンワンとかしていた遣隋使もひょっとしていたのではないか。遣隋使の全員が中国語ができたとは思えないし、言葉でのやりとりだけじゃないことは、昔から知られているだろうから。でも、違うのは距離の問題がある。当時はちょっとした恋文を木簡に記して送るのだって相当な労力がかかる。というか一般人レベルではほとんど不可能だったに違いない。瓶に手紙を入れて海に投げるくらいのレベルであろう。今はそこが違う。すでにこんな便利な世の中で、無数の面白い何かがあって、寿命が倍以上伸びただろうに、世界の全ての人間とすれ違うことさえできないほど人口はいて、そんな中、それでも僕は何が残された時間でできるのであろうか。。。などと、遣隋使から大きな世界へ視点を移動したりして自分をちっぽけにすると、たいへん虚しくなる。結局今でも僕は、海に手紙を投げているようなもんではないかという気持ちになり虚しくもなるが、海に向かって感傷に浸った遣隋使の誰かともきっと友達になれたかもしれないなという気にもなったりして、それなりに僕も遣隋使をしているような気持ちにもなってきた。謎である。。。そんなことよりも、自分にとって大切な何か1つだけでいいな。と考えたりして、あちこち空をぐるぐる回っている。

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こういったいろいろの試行錯誤が、いや思考錯誤が、きっと作品になるはずなのだが、まだもう少しかかりそう。こんな感じで、何やってんだか分からない例しか今のところ示せないのだが、しかし、そんなんでもありがたいことに、何人かの人に協力してもらうことにより個展をさせてもらえる機会を頂くことに成功した。今回は過去作に中国語字幕を入れ再編集する映像4点と、その他に新しいアイデアもいくつか形にできればなと思っている。

個展は11月6日から11月19日で開催される予定です。
詳細は決まり次第ここに追記します。

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あ。そいえば、文才がないなあと気付き、ここに書くのは控えようとしていたのですが、つい長文になってしまった。おぉ。恥ずかしや。emoticon-0184-tmi.gif

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# by terae-art | 2016-10-27 21:38 |  ┣考え中
友達に会う
そろそろ福岡を発つため、アパートの引っ越しを進めている。

それで、ほとんど荷物がなくなっていることや、「今度飲もう」と言われていた人と話しておきたいと思っていたこともあり、平日なのに家飲みをしてみようと急遽思ってしまった。その日のお昼くらいから何人かに声をかけたが、突然だったということや、雨だったこと、そんなにお前と飲みたくないわということ、そもそも皆仕事してるなど、いろいろな理由で今のところ結局一人で飲んでいる最中である。

先ほどその一人から電話があり、「何飲みなん?」と聞かれた。よく考えてみれば、理由もなく飲み会をするということは、なかなかないことである。平日に何となく家飲みを誘うということは、大学生ぶりであることに思いあたった。何かの理由があって人は人と出会うのであって、ただ出会うということはなかなかない。出会う理由が、通常の会い方には必要なのだと知った。もし、理由なく出会うとしても、それにも理由が隠されているのだと思う。しかし、僕は今日、どんな理由で家飲みしようと誘ったのだろうか。ただ会いたいからと、言えなくもないが、それにだって理由が隠されているのだし、そもそも会いたいから会うというような大人は通常いないのであって、忙しい毎日と、家族サービスでスケジュールは埋まっているのである。呑気なことが言えるのは、初めての一人暮らしをした人や、ホームシックになった大学生くらいで、僕も帰省するたびに高校時代の友達とたいした理由もなく出会っていたものだ。それも、家族を持つ人が増えた時期から、全くなくなっていった。

「何飲みなんって言われても、特になんもないよ。部屋が片付いたからさ。なんとなく。」と言ったら、「寂しいんやろ。仕事終わったら行けるけど、何時までやりよると?」と返ってきた。それを聞いて一瞬、ハッとなった。今日の夜は暇だから誰かと飲もうかなと気軽に声をかけただけだったのだが、その「寂しいんやろ」という言葉で、自分は寂しがっていたから人と出会おうとしていたのかと、自分の状況を暴かれたような気がして恥ずかしいような気持ちになった。


ここで数名の訪問があり、近況などを語り合い、
2時くらいまで話て、みんな帰っていった。
家飲みだとそのまま寝れるから楽だなあなどと呑気に寝床につく。


翌日の朝、「昨日って何かあったの? ふと気になって心配になったよ。」と誘っていた別の友人からメールが届いた。やはり理由もなく誘う人は、どこかおかしいと思われるようだ。

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# by terae-art | 2016-06-29 11:42 |  ┣考え中 | Trackback | Comments(0)
穴4
人はたいへん弱い生き物だ。
そのなかでも僕は特に弱いのではないか。
ちょっとしたことで心が大きく揺れ動いて、
随分と自分で自分を振り回してきたものだ。
頑丈な大木のように立ちたいものだが、
そよ風さえ痛く感じる程に、皮膚が薄く破れやすい。

カミュの「シシューポスの神話」の最初に、哲学の探求すべき最大のテーマは、人がなぜ自殺するかということだと書いていた。それ以外のことは、いくら大事なことだとしてもたいがい遊びみたいなもんだと書いてある。

この痛みのような感覚が、どこから来るのか分からないが、いろいろな原因が重なることで痛みになっているように感じる。それが自殺と関係する痛みかどうかは、僕には今のところ分からないけど、きっとこの痛みの感触が何なのかがカミュの言う探求すべき最大のテーマなのだろうと思った。しかし、不安であったり寂しさであったり怒りであったりする様々な痛みも、喜びがあれば和らぐことがある。いくつかの喜びが重なれば消すこともできるはずだ。

人が争うときも、自殺とは違う仕方で、自らを傷つけているのではないか。何かと衝突して自分の形が変形したり、穴が開いたようになれば、自殺と同じように死ぬこともあるのかもしれない。命があるかどうかと関係なく、死に続けることも生き続けることもできるのだと思った。

叫んだりして、ストレスを発散することが可能なのは、言い表せない痛みを言い表す唯一の方法だからなのかもしれない。もし、叫びによっても言い表せない痛みが刻まれたなら、その時は黙るしかないが、それによって何かが解決することはないだろう。見えない穴の底からでも叫び続ける強さが欲しい。

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# by terae-art | 2016-04-04 00:51 |  ┣考え中 | Trackback | Comments(0)
個展「穴」(3月26日追記)
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個展案内カード ダウンロード → 【】【
  


久しぶりの個展ですが、たった4日間のために湯水のごとく金を投入しております。金はともかく、まあ、頑張っている。そいで、今回は2年ぶりの個展みたいなんだけど、たぶんこれが終わったら、またしばらく個展させてもらえる機会ないと思うので、次回はまた2年後くらいかな。。。そんな感じがします。つーわけで、お見逃しなくっ!なんつってな!

27日が会期最後!残すところあと2日!!4日しかないからずいぶん早いなあ。
最終日27日は13時~22時までトークイベントです。よろしくどーぞ。→ クロージングトークイベント

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# by terae-art | 2016-03-15 01:21 |  ┣出品展覧会記事 | Trackback | Comments(0)